山階芳麿 私の履歴書

 

第20回 鳥類保護(下)

トキ、絶滅への道防ぐ 幸いにも深まっていく理解

日本国内の鳥類保護問題では、保護の伝統がないために苦労することが多かった。

終戦後間もなくであったが、カスミ網の禁止と空気銃の規制の法律を作るために"院外活動"を行った。私はもともと政治は大きらいなのだが、この時ばかりは仕方なしに国会に何度も通い、農林・水産委員会の委員一人一人に会い、また各党派を説得した。一方、空気銃の規制のためには国家公安委員会委員長だった青木均一氏のところに陳情に行ったが、青木氏とはすっかり意気投合し、同氏はその後も研究所のため、陰になり日向になって援助して下さった。

この"院外活動"の体験から、その後、議員の方々に関心を持ってもらおうと、昭和45年12月に「鳥類愛護議員懇話会」を作っていただいた。自民党の井出一太郎氏が代表世話人になって下さり、世話人が20人ほど熱心にやってくれている。会員は衆参両院合わせて約300人もいるが、総会の集まりはよくない。

トキの保護は林野庁に頼んだ。トキは戦時中に昔からの繁殖地であった佐渡の林木が伐採されてしまい、四散した時から絶滅への道をたどり始めた。終戦直後から保護の必要を訴え、当時生息していた佐渡や能登半島へも調査に行った。能登のトキは平地に住みついたため、早く農薬にやられたが、佐渡のは少し山寄りだったため、農薬の影響は少なかった。だが餌(え)がなくなると山からだんだん平地まで降りるようになり、農薬に汚染され始めた。

そこで保護対策はまず、まだ農薬に汚染されていない山の中の田んぼに、これも無毒の養殖ドジョウをまいて、トキが平地の農薬をまいた田まで餌をあさりに行かないようにした。次いでトキの生息している林の買い上げを林野庁に頼んだ。ところが保護が目的では買い上げはできないという。伐採のために買い上げることにして、木を切らなければよいだろうということで、何とか買い上げてもらった。

トキの数は以上の努力でもあまり目立って増加していない。このような場合には捕えて飼い、人工増殖をするのが世界の通念である。それには人工飼育についての知識が必要である。そこでトキ類の人工増殖で最も成功しているスイスのバーゼル動物園を訪れて、鳥類飼育主任のワッケルナーゲル博士から飼育法を詳しく学んできた。

この間に、スイスに本部のある「世界野生動物保護財団(WWF)」に資金を出してもらって、佐渡の清水平にトキの保護センターをつくり、飼育小屋や餌つけ場などを作ってもらった。センターの見積もりや、建設後の詳しい決算書作りのため、研究所の所員は何日も何日もソロバンと取り組んだのだった。

兵庫県豊岡市のコウノトリと鳥島のアホウドリの場合はマスコミが相手だった。コウノトリが巣を作り卵を生み出したというので、カメラマンが夜、木に登ってフラッシュをたく。驚いたコウノトリは卵を蹴落として逃げてゆく……。当時の阪本勝知事に頼んでマスコミの人々に自粛してもらった。鳥島のアホウドリも、何羽か戻り始めたころに、カメラマンがおもしろい写真にしようと、アホウドリを脅して、羽根を広げたところを撮ったりする。こちらの方は気象庁に頼み、年に1、2度だけ測候所へ補給に行く船に報道関係者を便乗させないようにしてもらい、やっと繁殖するようになった。

東京湾の埋め立ては相手が多方面にわたった。シギやチドリ、カモなどの来る東京都や千葉の湿地がどんどん埋め立てられてゆく。野鳥の天国を残してほしいと運動し、千葉県の新浜に80ヘクタールほど湿地を残してもらったが、埋め立ての中止は県知事、近くを通る予定の湾岸道路のコース変更は建設大臣、緑地として残すための首都圏緑化地域指定は建設省の他の局という具合であった。この80ヘクタールの湿地に現在では冬の間10万羽のカモが休むと聞いて、当時の苦心が思い出される。最近では当局の方も鳥類の保護を理解して、埋め立てなどの場合、事前に相談してくれるようになった。

(日本経済新聞 1979年5月16日)

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