山階芳麿 私の履歴書

 

第19回 鳥類保護(上)

GHQにより夢かなう 定着した「バード・ウイーク」

鳥類の保護は私の永年の夢であったが、その夢がかなったのは昭和21年の正月であった。だがその夢の実現をGHQに負わねばならなかったことも事実である。

21年の正月に横須賀の久留和の別荘に訪ねてきたGHQのオースチン少佐は、翌週、今度は研究所を訪れ、鳥類保護のために力を貸してほしいと言う。GHQでは天然資源局のオースチン少佐と文部省付きのエドミストン女史が推進役で、日本は鳥の保護に冷淡であるし、鳥の数も非常に減っているので、文部省に力を入れさせようと相談したとのことだった。

そこでまず鳥類保護団体を作ることになり、同時に鳥類の研究を復活させるため、日本鳥学会を再開することになった。こうして昭和22年3月、文部省科学局が中心となって創立したのが日本鳥類保護連盟である。会長には鷹司信輔氏がなり、私は幹事長。文部省のほか農林省、厚生省、NHK、各新聞社、各界団体が加盟し、事務所は科学局内に置いた。翌年鷹司氏が辞任し、私が会長となった。

この保護連盟は文部省が中心となるはずだったが、文部省はだんだん手抜きしはじめた。昭和23年には事務所を山階鳥類研究所で預かってくれと言い、文部省からは事務官が来て仕事をしていたが、それも昭和25年まで。以後は事務も任されてしまった。幸い民間の人たちが非常に熱心にやり、盛りたててきたが、それならいっそ純粋な民間団体にしては、というので、昭和31年に財団法人とし、理事長制とした。私がそのまま理事長となり、事務所も正式に山階鳥類研究所内に置いた。この後、総裁に常陸宮様をお迎えし、今年は33回目の記念行事を東京で行った。

連盟はさまざまな仕事をしてきたが、今や国民的な行事となっているのが「バード・ウイーク」である。これは最初、「バード・デー」と言い、第1回の行事は昭和22年4月10日に東京の日比谷公会堂で行った。これ以後、毎年4月10日にバード・デーの行事で講演などをしていたが、1日だけでは趣旨徹底などもできないから、もっと長くしようということになった。また、時期も4月10日では北海道や東北ではまだ雪の中なので、5月にした。こうして昭和25年からは現在のように「バード・ウイーク」として、5月10日から1週間、さまざまな行事を行うようになったのである。

このほかの仕事では、鳥類保護は、まず子供から教育する必要があるとして、青少年教育のために「私たちの自然」という雑誌を出した。編集を担当したのは主に学校の先生たちで、夜、学校が終わってから集まって編集などの仕事を非常に熱心にやってくれた。ほかにも鳥類保護のための手引きやスライドなどを作って青少年教育、成人教育、社会教育などを行った。

それと同時に、鳥類保護のために尽くした人々の表彰も昭和25年以来、バード・ウイークの行事の時に行っている。表彰も最初のころは全国から数人を選ぶのに苦心したものだが、今では全国の都道府県から集まる多数の候補者の中から該当者を選ぶのに一苦労している。実に隔世の感がある。

バード・デーの表彰でアメリカ人を表彰したこともある。三宅島の近くに三本嶽という岩礁があり、日本近海特産のウミスズメの繁殖地となっていたが、米軍がここを目標にして爆撃演習を行うという。これを知った米兵のモイヤー君が米本国に知らせ、結局、演習は他で行われるようになった。これに感謝してモイヤー君を表彰したものである。

米軍とのかけ合いも何度もした。三宅島と八丈島の間にイナンバ島という小島があり、米軍はここを目標に砲撃をすることになった。ところがここはカツオドリの最北繁殖地である。そこで外務省を通じて米軍に砲撃をやめて欲しいと申し入れた。米軍司令官は、それでは実情を見てくれという。米軍機であたり一帯を調べ、やはり保護が必要なことがわかったため、砲撃はやめになった。

さらに沖縄では絶滅しかかっているノグチゲラの生息地を目標として砲撃を始めた。すぐに現地の司令官に手紙を書いてノグチゲラの貴重さを説いたところ、司令官からは丁重な手紙が届き、「よくわかった。そこは目標からはずす」と言ってきた。

米国人は個人的には鳥の保護には熱心だが、米軍という他に目的を持つ組織となると話は別であった。

(日本経済新聞 1979年5月15日)

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