山階芳麿 私の履歴書

 

第28回 各種審議会

狩猟家団体も協力的に 鳥獣保護にめざめた国立公園

国内では山階鳥類研究所の仕事以外にも政府や民間の各種の仕事を手伝ってきた。

最初に政府関係の仕事をしたのは、昭和33年に引き受けた鳥獣審議会の委員である。この審議会は大正7年にできた狩猟法を改正し、カスミ網の禁止継続、空気銃の制限などを盛りこもうとしたところ、反対する狩猟者団体と促進を図る保護団体がきびしく対立したため、設けられたものである。それゆえ、この審議会が両者決戦の場となった観があり、激しい応酬があったが、結局、鳥獣保護の立場からカスミ網は禁止継続、空気銃は従来の玩具(がんぐ)から銃となり、所持に許可が必要となった。

この後、狩猟者団体が巻き返しに出て、狩猟者団体に有利なばかりでなく、この団体を日本赤十字などと同じ特殊法人にしようという法律を出し、衆院を通過したが、参院でやっと審議未了に追い込んだ。このため、鳥獣保護のための抜本的法改正を審議会で答申し、昭和38年に狩猟法の名前も「鳥獣保護と狩猟に関する法律」と変え、前書きに保護をしなければならないとし、保護のための事業も義務づけた。この法改正により審議会も国に中央鳥獣審議会、都道府県に地方鳥獣審議会を設けることになった。

さらに昭和48年に環境庁ができ、自然環境保全審議会が設けられ、その鳥獣部会となった。昭和53年にはさらに法改正が行われ、従来、保護の仕事は都道府県に任せられていたが、これを国がやることになり、保護区の監視員なども54年度予算からはつくようになった。

狩猟者団体は大日本猟友会が中心で40万人近い会員がいて、かつてはプロだった人も加わっているため、新しい保護の動きについてゆけないようであった。また、外国の狩猟家との交流もなかったため、保護に理解がなかったが、昨年、初めて猟友会の会長が外国狩猟家の会議に出席して世界の流れとしての保護の動きにびっくりして帰国し、以後、大変協力的になった。

昭和35年からは自然公園審議会委員となった。厚生省から、やはり環境庁に所管が移り、今では自然環境保全審議会の自然公園部会となっているが、委員になった当初は国立公園は景色が良く、レジャー向きであることが優先され、そのための風景、岩石、森林などの保存は図るが、鳥獣の保護などは目的になく、それに逆行する答申などをしたこともあった。外国では国立公園はすなわち大きな保護区である。自然公園審議会でも保護関係の専門家は私1人であったが、もっと鳥獣保護を入れることを強硬に主張した。

この結果、陸中海岸国定公園も指定当初は景色のよい所だけであったが、後にもっと南の海鳥の繁殖地も含めるようにした。また伊豆七島は国立公園に入っていなかったが、大変めずらしい動植物が多いため、富士・箱根国立公園を、富士・箱根・伊豆国立公園としてこれら動植物を保護することになった。

愛知県の知多半島で産業道路が鵜(う)の山という川鵜の繁殖地の近くに作られることになった時は、作るのはやむを得ないが鵜も保護することになり、工事法や道路のつけ方は私に任すということになった。それで、工事は繁殖期には行わず繁殖地の部分は地下道とし、その付近は夜、ヘッドライトが鵜に当たらないように、遮蔽(しゃへい)物を作る、繁殖期中、ダイナマイトを使わないなどを守ってもらった。そのおかげで道路はついたが、鵜はその後も繁殖している。

昭和42年から文化財保護専門審議会委員となり、コウノトリやトキの保護に努力したが、これは前に述べた。ただ、文化財保護法は大正7年にできた史蹟・名勝・天然記念物保護法と国宝、重要美術品保護法を機械的に一つにまとめたもので、保護も現地にそっとそのまま置いておくというものである。ところが現在では公害などのため現地にそのまま置いておくことにより絶滅するケースが大変多い。トキも現在では6羽だけで、絶滅は時間の問題である。このため文化財保護法を改正し、国が人工増殖を図ることが緊急に必要である。諸外国はすべてこの方法により絶滅にひんしている動植物の増殖に成功している。

このほか、民間の仕事では日本鳥学会、日本鳥類保護連盟の会長のほか、日本自然保護協会や日本染色体学会などの理事も務めた。国際団体では、国際鳥類保護会議の副会長、アジア大陸部会長のほか、世界野生動物保護財団の名誉会員、米国鳥学者協会の名誉会員、世界キジ類保護協会の副会長などを兼務している。

(日本経済新聞 1979年5月24日)

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