山階芳麿 私の履歴書

 

第25回 妻の死

先年の手術のかいなく 海外から多くの悔やみの手紙

昭和41年12月22日に妻の寿賀子が死んだ。ガンであった。以前に一度手術をして健康を取り戻し、この年も7月から1ヵ月ほど、一緒に英国はじめヨーロッパを旅行したのであったが、帰国後、再発して4ヵ月ほど病床について亡くなった。

寿賀子はどちらかといえば口かずの少ない方で、あまり社交的ではなかったが、国内、国外を共に旅行してよき伴侶(はんりょ)であった。それに外人たちから意外に慕われていた。妻が亡くなったと聞いて多数の外人から悔やみの手紙をもらったが、その中で例えば昭和35年のICBP東京会議に参加したアメリカのハーバート夫人は「あの時山階夫人にお会いしたことによって、あの旅行が私の一生の楽しい思い出となりました」と書いて来たし、韓国の元炳●博士は「今私は母をなくしたような気がしています」と書いて来たのだった。

妻の死後1年間は外国に出かけなかったが、昭和43年になって、パンアメリカン大陸部会の会議があったので、アジア大陸部会会長として出席した。帰りにメキシコに寄って数日間滞在した。これまでの海外旅行のほとんどは先進国であったが、ここは先進国に向かいつつある、いわば中進国である。だが、この国も鳥類保護には熱心であった。

特に、鳥類が憩う樹木の保護を熱心にやっている。もちろん、国の北部がさばくであるという条件はあるが、樹木の枝を切る時には、それが自宅の庭に生えているものであっても届け出て、許可が下りなければ切れない。メキシコ市には日本人の華道の先生がいたが、華道に使う木の枝も切ることができないので、郊外に定められた木を切ってもよい区域に行って取ってくるとのことであった。

緑を守るために私権をも制限しているのは欧米先進国では珍しいことではない。それだけに国家も大変な努力をしている。中米に行く2年前に西ドイツのハンブルクに寄ったが、市内全域に亭々とした大木が茂り、市民に緑を提供している。ハンブルクは知られているように、第二次大戦で徹底的なじゅうたん爆撃で東京以上のガレキの山となった都市である。聞いてみると、爆撃で木もすべて黒こげとなったが、少しでも息のある木には手当てを施して、生き返らせたのだそうだ。東京では大空襲後、焼けた木はすべて無差別に切り倒してしまった。その違いが、現在、東京とハンブルクに歴然と表れている。

さらに日本ではグリーンベルトというと、高速道路や一般道路の真ん中に1メートルから、広くとも3~4メートルの幅と決まっているが、欧米でいうグリーンベルトは幅2キロか3キロある。私が最初に見たのはスウェーデンの第2の都市ゴーテボルグのグリーンベルトで、これは港湾・工場地区の周りにぐるりと2キロの幅で設けられており、グリーンベルト内には動物園と植物園が一つずつある以外は何も作らせない。グリーンベルトの管理者は最近野生のシカが住みついたと自慢していた。その外側に住宅地区、公園、商業地区などが設けられ、市民は工業地帯の公害を受けることなく健康な生活を送っているのである。

最も壮大なものは、アメリカのシカゴから車で1時間ほどの所にあるクックカウンティー・フォレスト・システムと呼ばれている大シカゴ市のグリーンベルトで、幅は狭いところで3~4キロ、広いところは8キロ近くもある。シカゴは1度、工業化とトウモロコシ畑にするために樹木をすべて切り尽くし、むき出しの町になってしまったのだが、これではいけないというので、工業地帯と住宅地帯の間を買い上げ、そこに開拓時代以前に生えていた樹木を調べ、その苗を小、中学生に育てさせ、植えさせたのであった。現在では市民のキャンプ場が数ヵ所と、ビジター・センターという4、50平方メートルの小博物館があるほかは何も造る事を許されていない。それで、現在では、シカゴはもはや公害の都市ではなく、健康的な現代都市に生まれかわっているのである。

昭和44年12月にはインドのバラトプールで開かれたアジア大陸部会に出席した。ここには有名な国設保護区がある。昔はマハラジャと言う、日本の大名に当たるものの狩猟地だったが、珍しいツルやコウノトリなどが大変多く、やぶに入るとあちこちから野生のクジャクが飛び出す。独立のとき国際的な進言によって、インドの中央政府が国設保護区としたものであった。日本の明治維新はちょうど欧米でも開発の時代であったため、欧米でもぶちこわし優先で、自然や鳥類保護の思想は全くない時代であった。それがそのまま日本に反映され、今日に至っているのである。これに対し、インドの独立は戦後で、英国をはじめ先進国がすべて自然保護優先の時代となっていたため、インド政府もその考えを受け入れたものである。

●=「日偏に午」
(日本経済新聞 1979年5月21日)

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