山階芳麿 私の履歴書

 

第22回 初の海外旅行

ヘルシンキの会議へ 世界の研究仲間と顔合わせる

昭和33年に私は初めて海外旅行に出かけた。フィンランドのヘルシンキで開く国際鳥類保護会議(ICBP)と国際鳥学会議(IOC)に出席するためである。ICBPは1922年(大正11年)に創立され日本も最初から参加していた。4年に1度総会を開き、戦争中、中止されていたが、戦後は昭和29年に初めて総会への招待状が来た。しかし外貨の関係で許可がおりず、33年になってやっと1日18ドルのワクで行けることになり、黒田長久研究員と一緒に出かけたのである。

初の海外旅行であったので、約2ヵ月、各地を視察して回ることにした。5月中旬南回りで、ローマを経て、まずフランスのアルルで開かれた国際水禽調査局という民間団体の第1回会議に出席した。旅費が少ないため小さなホテルで安い食事をするという旅であったが、戦前から親しくしていた多くの鳥の研究者たちに会い、大変親切なもてなしを受けた。フランス人のデラクール氏は戦前、私の研究所を訪れていたし、ドイツの大御所ストレースマン博士はしじゅう文通し、互いに情報や標本を交換していた仲であった。

この会議の日の夜に行われた宴会には、鳥類保護団体の人と狩猟団体の人が半分くらいずつ集まってなごやかに話し、かつ飲んでいる。当時日本では保護団体と狩猟団体は犬猿の仲だったので奇異に思って尋ねると、デラクール氏が、「本当に鳥類保護をしようと思ったら保護団体は狩猟家とも仲良くし、協力し合わなければできない」と言った。この言葉に大変感銘を受け、その後、私もそのように努力して来た結果、現在では狩猟団体もだんだんと私たちの話を聞いてくれるようになった。

会議が終わってから、フランスが最も誇りにし、大切にしているローヌ川の河口のカマーグ保護区を見せてもらった。ここは大変大切に保護されていて、フランス政府、鳥学会、鳥類保護協会の3つの許可証がなければ入れない。大変広いので、管理はそこにあるいくつかの民間団体に委託しており、ヨーロッパで2ヵ所だけ残っているフラミンゴの保護を引き受けているのは、近くの化学会社であった。化学会社の事務所に行くと許可証をくれて、事務員が案内してくれる。そうしたフランスの民間企業の姿勢を見るにつけ、日本の現状を憂えざるを得なかった。その夜、近くのシャトー・ぺゼナスの主人の賓客としてデラクール氏と私たち2人は泊めてもらったが、おとぎ話の中の王子様のような感じだった。

ロンドンではブリティッシュ・カウンシルの人が案内してくれた。公園の鳥やロンドン動物学会などを見せてもらい、鳥と人々が大変親しいのがなぜなのか、不思議に思ったものである。さらにパリでは、ちょうどフランス鳥学会を開いており、私が持っていったアホウドリの映画を中心に日本デーを開いてくれた。

期日が迫ったので、フィンランドに向かうことになったが、途中、コペンハーゲンで飛行機を乗り換える時に、やはり会議に向かうらしい人々と一緒になった。声をかけてみると、インドのサリム・アリ、デンマークのサロモンセンら、戦前から文通をしていて、互いに名前を良く知っている人々だった。向こうも「あなたがヤマシナか…」と初対面ながら百年の旧友のように打ち解けた。

ICBPとIOCの会議が開かれたのはヘルシンキの工科大学のキャンパスで、参加者は学生寮に泊まりこんだ。この二つの会議には前述の人々のほか、ソ連の代表的な鳥類学者のデメンチェフ、イワノフ、フォルモゾフらも出席しており、紹介してもらった。彼らとのつき合いは後に日ソ鳥類保護条約の時には大変役立った。

フィンランドでも子供に対する鳥類保護、動物愛護の教育は徹底していた。日本大使の公邸でも子供部屋にリス、庭にはカモが遊びに来て、子供たちからエサをもらうということだった。

この会議の席上、まだ東洋で会議を開いたことがないので東京で開かないかと打診を受けた。東京に問い合わせたところ「OK」というので、引き受けることになった。

帰りに西独のフランクフルト・アム・マインに寄り、鳥類保護署を見学した。全国の国有林の役人に鳥類保護の教育をしているのだが、10日間寄宿舎に泊め、鳥の好きな木を教えたり、巣箱のかけかたを教えたりしている。終わって各地の国有林に帰ってからは、ここでの教育の成果をどのように実地に生かしているかをレポートさせるのだという。ドイツでは東西を問わず、鳥類の保護には大変力を入れていた。

帰国したのは7月23日であったが、この初めての海外旅行は、多くの旧知の人々と対面初したこと、また各国の進んだ鳥類保護の実態を見ることができたことなど、大変得るところの多い旅行であった。

(日本経済新聞 1979年5月18日)

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