1.3 ドバトの国内の歴史


 「ドバト」は、紀元前3,000年前にすでにエジプトで飼育の記録があるといわれ、カワラバトの家畜化の歴史は古い。このカワラバトの馴化は、地中海のシリア及び中国においてそれぞれ独立しておこなわれたという 6)

 国内への渡来は、朝鮮半島の三韓の時代にまでさかのぼると考えられている 6)。この時代は、大和・飛鳥時代に当り、歴史的にみても古い時代に渡来していたことになる。

 国内の放生会は、敏達天皇(572年即位)にはじまるといわれ、これは仏教の殺生戒に由来し、魚・鳥等を野に放すことである。この放生会で最も有名なのが、石清水八幡宮であり、円融天皇(969年即位)のときにはじまっている 17)。このときに、「ドバト」も使用されていた可能性がある。

 平安時代の「源氏物語」には、ドバトを指す言葉である「伊閉波止」が記述されている 8)。また、1279年に宋から禅僧無学祖元が来朝し、八幡宮に詣でた記録のなかに次のようなものがある 17)。八幡宮の御殿の梁上に「木鴿数個の彫刻」をみて、侍僧に尋ねたところ、鴿は使鳥であると答えたという(鴿はドバトを指す)。この八幡宮は、1191年創建であることから、この「ドバト」の彫刻はその頃の作ではないかと考えられる。

 神奈川県江の島の洞窟内にドバトが生息していた記録もある。北条綱成は、1551年にこの洞窟内に生息しているドバトの殺生禁断の掟を出している。また、17世紀末から活躍した画家の屏風絵のなかに、白色や黒胡麻の「ドバト」の絵が描かれている例 22)もある(4.4参照)。

 江戸時代に入ると、伝書鳩の輸入の記録があるという 12)。当時は、商業の中心地である京阪神地方の極く一部で飼育され通信にも利用された。特に、1783年に大阪の相場師相屋又八が、大阪堂島の米相場の連絡をしたという話は有名である。

 野生のドバトの生息の記録は、Blakiston et. al. 1) をはじめ、明治以降の鳥類研究者の鳥類目録にみられる(当時は、先に述べたようにカワラバトとして記載)。このような神社・仏閣以外の場所での観察報告は、その他にもいくつか知られている。
 伝書鳩は、明治以降特に大正時代から通信の目的(軍用鳩)で飼育されだし、本格的に種々の系統が輸入された。また、1919年に「軍用鳩調査委員会事務所」が開設されてからは、全国的に普及し、伝書鳩の愛好者の組織も誕生している。1933年当時の民間の飼育羽数は、新聞社・学校・官庁で28,100羽程度であったという 12)

 一方、神社仏閣を中心に生活していたドバトは、東京近郊の場合積極的に餌づけや巣箱の架設が施されていた(4.1参照) 13)

 食用鳩は、1920年代頃から農家の副業として飼育されだしたが、国内では定着することなく、現在ほとんど飼育されていないと思われる。

 第二次世界大戦がはじまると、民間の伝書鳩は食糧難、飼育者の減少、軍用鳩としての献納で、その飼育羽数は漸減した。しかし、戦後は、競技を主目的とした伝書鳩の飼育ブームが起こり、1951年約5万羽、1954年約10万羽の登録羽数に復活し、複数の伝書鳩の全国的な組織も誕生している 12)

 宮沢和男(1978、私信)によると、戦後のブームは1969年当時が最高潮で、年間生産羽数は400万羽弱に達したと推定している。現在(1977年)でも、複数の伝書鳩の団体の登録羽数は、73.5万羽程度であると述べている。

 こうしてみると、戦後の伝書鳩の飼育ブームによって生産された伝書鳩は、相当な数になると思われる。図1.1、図1.2は、伝書鳩の団体のひとつである(社)日本ハトレース協会の会員数、発行足環数を示したものである。近年に至って減少傾向を示しているが、伝書鳩のブームの推移を示している。

図1.1 日本鳩レース協会の会員数の推移

図1.1


図1.2 日本鳩レース協会発行の伝書鳩の足環数の推移
図1.2



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