4.1 過去と現在のドバトの生活


 カワラバトを原種とする「ドバト」は、1.4でみたように古くは大和・飛鳥時代に渡来していたと考えられている。これらの「ドバト」が野外で生活するようになったものがドバトである。

 1929年頃(昭和初期)の東京近郊のドバトの生息状況について調査した資料によれば 4) ドバトの分布は、護国寺(約200羽観察)、鬼子母神(300羽)、本門寺(300羽)、築地本願寺(100羽)、湯島天神(100〜150羽)をはじめ、増上寺、深川不動、伝通院、毘沙門、善福寺、金刀比羅宮、浅草寺、根津神社、日枝神社、赤城神社等で観察されている。また、ドバトは生息が不適か、あるいは生息を許されないためか、予期に反して生息している所が意外に少ないと報告している。このように、ドバトが生息していた所は、著名な神社仏閣で多くの参拝人があったものと思われる。

 これら神社仏閣のうち日枝神社以外では、ドバトを繁殖させるために巣箱の架設や餌づけ(販売もしていた)を積極的に行い、基本的に保護の方針をとっていた。ドバトからみれば、神社仏閣は餌場であり、同時に営巣・就塒場所として好適な条件をそなえていたと言える。
 また、岩手県盛岡市周辺のドバトの分布について報告 5) がある。この報告によると、「ドバトの多くは馬車繋留穀類の積下し等頻繁なる穀物店、倉庫、停車場、工場、軍隊若しくは飼料を容易に求め得られる付近にして、且つ人畜の接近極めて困難なる家屋の屋根裏、軒下等に好んで営巣し繁殖していた」という。現在のドバトの生活と同様に人間の生活域と結びついて生活していたが、その分布域は局所的である。

 当時の個体数については、先の東京近郊のドバトの資料によると、「全国の神社仏閣にて繁殖する鴿(ドバト)の数は非常なものだと思うが、東京市付近におけるもののみについて見るも減少どころか近年増加するようである」と述べている。しかし、その個体数は3.1でみたように現在の都市、工場地域、農村等でみられる規模ではないという(松山資郎、1978 私信)。またドバトが、神社仏閣などで人に依存して餌を得ていたことを考えると、戦後の食糧難の時代、ドバトは餌の確保ができず、その生息数は決して多くはなかったと思われる。従ってドバトの被害問題からドバトの生活を考えると、1950年代以降のドバトの個体数増加並びに分布域の拡大が被害発生の上から問題になる。



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