山階芳麿 私の履歴書

 

第27回 渡り鳥条約

10年前に初めて米国と ソ連とも実質的に協力しあう

日本には多くの渡り鳥が南から、北から渡って来、また戻ってゆく。こうした渡り鳥を国際的に保護しようというのが渡り鳥条約で、ヨーロッパで1902年に渡り鳥保護協約が結ばれたのが最初である。当初は農業に有益な鳥だけを対象としていたが、その後渡り鳥全般の保護を目ざして昭和25年に改正された。アメリカではカナダと大正5年に渡り鳥保護条約を結び、昭和11年にはメキシコとも結んだ。

日本に初めて渡り鳥条約を結ぶようにと勧告が出たのは、昭和35年に東京で開かれた国際鳥類保護会議の席上で、これはすぐ日本政府に伝えられた。アメリカ政府は、勧告を受けた後日本に日米条約の可能性を尋ねて来たので、私たちは林野庁になるべく早く条約を結ぶよう進言したが、林野庁の上部でにぎりつぶされてしまい、5年たなざらしとされてしまった。

再び日の目を見たのは昭和42年。社会党の加藤シヅエ代議士が、国会で、「5年間も放置しているのはアメリカ政府に非礼ではないか。条約を結ぶべきだ」と質問して下さり、政府もようやく重い腰を上げた。こうした日本側の動きを米側の窓口である国際鳥類保護会議の会長リプレイ氏に伝えようと、昭和43年、ベネズエラのカラカスに行き、パンアメリカ大陸会議の場でこれを伝え、互いに準備を進めることになった。これに基づき、その年にアメリカ代表が東京に来て第1回会談が行われた。私はこの条約を渡り鳥だけでなく、他の絶滅にひんしている鳥の保護も盛り込んだものにするよう強く主張し、その方向でゆくことが決まった。

第2回の交渉は翌44年10月にワシントンで行われ、私も日本政府代表の一員としてこれに加わった。アメリカ側は国務省の大使級の人が首席で18人の代表団を組織し、東京で専門家会議は終わったはずだから、条約の案文作りをしようと待ち構えていた。ところが日本側は林野庁の部長を首席に私など合計3人。ただ専門家として話し合ってこいというので、話はかみ合わない。

駐米大使下田武三氏が、折角おいでになったのだし、米側もあれだけ熱心なのだからと、条約の案文作成を東京に請訓してくれ、愛知揆一外相の「オーケー」を得て、大使館の参事官2人も加わって案文を作った。

条約が締結されたのは昭和44年である。「渡り鳥及び絶滅の恐れのある鳥類並びにその生息環境の保護に関する条約」という長い名の条約で、これによって190種の鳥の保護をめざしている。アメリカからはアラスカからシギ、カモなどの類が多く飛んでくるし、アホウドリは鳥島からアリューシャンを経てアラスカ、カリフォルニア、熱帯太平洋を経て鳥島に戻るのである。

日米条約が片付いたので、今度は日ソ条約に取り組んだ。昭和47年にソ連側の意向打診を兼ねて訪ソした。モスクワで、鳥類研究所や標識センター、保護を総括している役所などを訪ねた。ところが、そこで中心になって働く人はみな、かつて私がヘルシンキの会議以来交友を続けたデメンチェフ、イワノフ、フォルモゾフらの弟子たちであった。当時の写真を見せると、ソ連側の人々はみなすっかり打ち解けて、ソ連側の考えのすべてを明けっぱなしに話してくれた。日本大使館の人々が、こんなことはかつてないことだと驚いたほどである。その時の話をちょうどモスクワを訪れた大石環境庁長官に伝えた。帰途、ハバロフスクに寄ったが、空港に花束を持って迎えに出てくれたのは、ウラジオストクの鳥類学者たちで、汽車で一昼夜かかる距離を歓迎のために来てくれたのであった。

日ソ条約も日米条約と同じ内容で、昭和48年に締結し、ソ連側はすぐ批准したが、日本では、北方領土問題から、まだ現在まで批准が済んでいない。けれども実際には徹底した協力が行われ、ソ連での研究資料はすべて送ってくれている。この条約では287種の鳥を保護している。日本の渡り鳥の大部分はソ連から来るものなので、この条約の意義は大きい。

このあと昭和49年に日豪条約ができ、オーストラリアと66種の鳥を保護し合うことになった。この条約により保護されることになったオオジシギは、日本だけで繁殖し日豪間を無着陸で渡る鳥で、オーストラリアでは狩猟鳥となっていたが、数も少なくなって来たので保護の対象となったものである。

アジアの渡り鳥条約も昭和44年のインド・バラトプールのICBPアジア大陸部会で条約の案文作りが日本に任され、49年のオーストラリア・キャンベラの会議で第2案が成り、51年のインドネシア・ジャカルタの会議で最終案が成った。だがこれはまだどこも批准していない。日本が先頭に立って批准し、アジアの各国に呼びかける必要があるだろう。

(日本経済新聞 1979年5月23日)

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