山階芳麿 私の履歴書

 

第18回 戦後の生活

別荘で慣れぬ農作業も 標本や図書守るため土地処分

昭和20年8月15日、日本は戦争に敗れ、私の立場は一変した。華族制度はなくなり、収入の道もなくなった。終戦前後は秩父に行っていたが、11月に横須賀の久留和の別荘に戻り、ここでほぼ10年を過ごした。渋谷・南平台の家は焼け、さらに昭和23年に施行された財産税のため、その土地も売り払ったので、東京に出た時には、焼け残った研究所の所長室のソファ・ベッドで寝起きしていた。

電話料金が払えなかったため、電話をとめられてしまったのもこのころである。久留和の別荘は庭が広かったので、ここを畑として自分たちの食べるものを作った。顕微鏡を操作していた手に、くわを握っての、慣れない農作業だったが、近所の農家の人たちがみな親切にしてくれたので大変助かった。また、鳥の飼育はお手のものなので、ニワトリを飼い、卵を取って、それを売ったりもした。

昭和21年の正月にGHQ(占領軍総司令部)の天然資源局のオースチン少佐が突然、久留和に訪ねてきた。私と米軍との初めてのふれ合いだった。オースチン少佐は鳥に詳しい人で、彼の父が鳥の研究所を作ったのだという。いろいろ鳥の話をしたあと、「来週東京で会おう」と言って帰っていった。翌週、研究所に行くとオースチン少佐も来ていて、鳥の保護の問題などを話し合った。オースチン少佐とはこれ以後、さまざまな問題で話し合い、一緒に行動することになった。

一方、山階鳥類研究所の置かれた環境も一変した。財団法人の基本財産であった満鉄株などはすべて無価値な紙切れとなった。このため、山田信夫、鳥居元、古川晴男の三研究員と日和三徳、佐久間英松の二所員は退職し、新たに三上源三所員が標本や図書の整理にあたることになった。

所員の給料や電気代、水道代、税金などは当初は私の生活費からねん出していたが、財産税の施行でそれも不可能となった。あとは基本財産を減らすか、それともこれまで永年かけて収集してきた貴重な標本や図書を売るしかない。

だが、私には標本や図書を売ることはできなかった。やむを得ず、文部省に申請し、基本財産の一部である研究所に隣接した宅地約1778平方メートルを処分した。現在ならば10億円近くはする土地だが、貴重な標本や図書を売ってしまうことに比べればはるかに賢明な選択であったと思っている。

終戦直後、一面の焼け野原の中にポツンと1軒だけ建っている研究所は当然、GHQにより接収されることになり、その旨書いた札が玄関にはられた。どういういきさつか知らないが、ある日突然、GHQの東京・山梨地区の民政長官ヒッキー大佐がやってきた。標本室や図書室などを見て回ったが、帰りがけに自分で接収の札をはがして立ち去った。たちどころに接収解除となったのである。その後もヒッキー氏は大変親切にしてくれ、私が風邪をひいて研究所で寝ていると、夫人を連れて見舞ってくれたりもした。

また、横浜の兵站(へいたん)司令官のウルフ少将も、毎週土曜日の午後になると自分で車を運転してやって来て、ワシやタカの標本を見たり、図書を調べたりして帰っていった。これら米軍の人たちはそのたびに見舞いの品を置いていったので、物資のない時でもあり大変助かった。ウルフ少将は1年ほどして転任し帰国したが、その時、日本のクマタカの卵を記念にあげたところ大変喜び、帰国後もたよりをよこした。

このほか、米軍の法務官のコーン中佐も、最初、研究所を訪ねてきたのだが、すっかり意気投合して、2人で夜遅くまで話し合ったりした。彼も現在フロリダに住み、しょっちゅう手紙をよこしている。

そんなある日、GHQから長さ70センチ、幅40センチほどの木箱が届いた。マニラの港の倉庫にあったもので、送り出したのはハーバード大学となっている。開けてみるとタカの類の標本であった。戦前に研究所とハーバード大学は標本の交換をしていたのだが、日付を見ると戦争のぼっ発する寸前。荷を積んだ船が日本に向かう途中、日本軍の真珠湾攻撃があったため、行き先を急きょマニラに変え積み荷をそこにあげたものらしい。マニラも激戦が行われているので、これらの標本がよく無傷で残ったものと、驚き、また大喜びしたものである。

(日本経済新聞 1979年5月14日)

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