山階芳麿 私の履歴書

 

第17回 染色体形の研究

純科学的な分類法提案 昭和25年、日本遺伝学会賞うける

鳥類の雑種不妊性の仕組みを知る中で、染色体形が不妊性に大きなかかわりを持つことがわかった。染色体形は鳥の種類によって、大きさ、数、形などがすべて異なっているが、その相違が大きければ大きいほど不妊性は強まる。他方、相違が小さく、染色体形が似ていればいるほど不妊性は弱まり、孫もできやすくなる。

そして、その不妊性の程度の違いを目安にすれば、従来、同じように見えながら何となく別種に分類されていたものや、見かけは著しく違いながら何となく同種に分類されていたものなども説明できるようになる。ただ問題となる種とこれに比較される種との間に雑種不妊性の程度を実験的に調べる必要がある一方、さまざまな鳥類の染色体形を明らかにしなければならない。

そこで続いて鳥類の染色体形の研究に取り組んだ。ニワトリ17品種の染色体形を明らかにし、比較研究したのが昭和19年、ガン、カモ、ハクチョウ類23種は昭和20年、クジャク、キジ、ホロホロチョウなど数種の雉鶏目の鳥の染色体を昭和21年、その他、ハト、サギ、スズメなどの種類についても染色体数を明らかにした。

これらの研究の中で鳥類の染色体形にもいくつかの基本形があり、それぞれ少しずつ変化した形があることがわかった。それらの相違と不妊性の強さとの関連を基に新しい分類のシステムをまとめ、昭和22年5月31日の日本鳥学会の総会の席上、「雁鴨類の新分類法」として発表した。染色体基本数、染色体形によって、雁亜科と鴨亜科に分け、さらにこれに属する鳥を細かく分類したもので、従来、雁に近いとされていた白鳥を鴨に近いものとして位置づけた。

この他何編かの論文を集大成したのが昭和24年に出版した「細胞学に基づく動物の分類」である。従来の色、形態などを基準とした形態分類が避けることのできなかった研究者の主観の混入を除き、純粋科学的な基準に基づいた分類法の提案であった。そしてそれはショウジョウバエの唾液腺染色体やある種の植物の染色体によって知られていた、遺伝子の配列による染色体の相同性に関する知見とも合致するものであった。それからまた、科、属、種、品種という分類学上の階級にそれぞれ定義をつけたのも、これが初めてであった。

私はこの本によって、昭和25年の日本遺伝学会賞を受賞した。だが、この本が編集されたのが戦争末期から終戦直後に当たっていたため英文を使えず、日本語のみによるものである。その後、現在まで英訳するチャンスがないままに過ごしてしまったが、欧米からもこの本についての問い合わせが多いので、なるべく早く英訳したいと思っている。

戦争が始まると海外での標本採集はできなくなったが、これまで続けてきた細胞学、遺伝学の研究を続けた。また研究所は陸軍獣医学校の嘱託を受けて軍用鳩や馬の生理学、病理などの研究をした。

戦争がひどくなった昭和18年に召集され、陸軍の第七科学研究所に勤務することになり、生理学、病理学の研究に参加した。当時、第七研究所で使う実験用のニワトリやネズミは、実験用の純粋系統のものでなく、手当たり次第使っていたので、いくら実験してみても正確な成果は出ない。そこでネズミ、ニワトリ、カナリアなどの純粋繁殖をはかることを提案して採択され、ネズミは北大に、カナリアは中野に施設を作ったが、最後に計画したニワトリの施設は作らないままに終わった。

昭和20年5月23日夜から24日にかけて渋谷一帯が大空襲を受け、約1万平方メートルの庭に70発の焼い弾が落ち、邸も庭の禽舎(きんしゃ)もすべて焼けた。研究所にも焼い弾の直撃弾が10発と焼い弾をまとめる直径60センチもある鉄筒が天井に落ち、建物は炎に包まれた。庭のすみに掘った防空ごうから見ていた私は、これですべて灰燼(かいじん)に帰したかと思ったが、一夜明けてみると一面焼け野原の中に研究所だけがポツンと残っていた。

奇跡的に焼け残ったのは、研究所の天井が二重構造であったためである。直撃した焼い弾も1層目は突き破ったが、20センチほど離れた2層目ですべてストップしていた。また、防火トビラも厳重なものであったうえ、前もって布製、木製品などはすべて建物の中心に集め、窓際2~3メートルには燃えやすいものを置かないようにしておいたのもよかった。空襲のあと、館内に入ってみると、防火シャッターのすき間から入った真っ黒な灰や燃えかすが、窓から2メートルぐらいの所まで積もっていた。

研究所の建物はその後雨もりが続いていたが、屋上に3階部分をつぎ足したことでそれもなくなり、今も立派に役立っている。

(日本経済新聞 1979年5月13日)

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