山階芳麿 私の履歴書

 

第24回 米国へ 欧州へ

鳥類保護で多くを学ぶ 形だけまねても心がないと

国際鳥類保護会議(ICBP)の副会長とアジア大陸部会の部会長を兼ねる私は昭和33年以後、何度も海外の会議に出席した。

最初の訪米は昭和37年、ニューヨークのICBP世界会議と同州北部イサカのコーネル大学で開かれた国際鳥学会議(IOC)に参加するためである。この機会にアメリカを一周してきたが、フロリダでは州立大教授となっていた昔のGHQのオースチン少佐や、コーン法務官らの懐かしい顔や、東京会議に出席した人々と再会した。

これらの親しい人々が案内も宿もすべて引き受けてくれた。鳥の研究者仲間ではよく「人間にはパスポートがいるが、鳥はそんなものは必要としないではないか」と言う。その言葉のように国境のない心と心の交流ができて大変楽しい旅行をすることができた。

アメリカでは国立公園と国設鳥獣保護区をたくさん見た。世界で最初の国立公園となったヨセミテをはじめ、一番新しいエバグレード国立公園、そして有名なイエローストーン国立公園などを回った。また国設鳥獣保護区には必ず事務所があって、所長にはたいてい鳥学者がなり、数人から十数人もいる所員もみな鳥獣保護の専門教育を受けた人たちであった。こうした国立保護区が約300。州立のものはこの50倍はあるとの話だった。保護区という朽ちかけた柱だけが立ち、1人の番人もいない日本の保護区の遅れを痛感した。日本では今年度からやっと、何ヵ所かの保護区に保護区職員を置く予算がついたという有様である。また、狩猟用の鳥は大部分、民間や州が人工養殖をしており、狩猟場にはそうした鳥が放たれるのである。

41年には英国でICBPとIOCの会議があった。ケンブリッジとオックスフォードで開かれた会議の間に、スコットランドの島めぐりをした。すべてが終わってからロンドンにもどったが、以前ロンドンに来た時、公園の鳥が訪れる人に大変親しんでいるのを見て不思議に思ったものである。

その秘密をこの時に知った。それは公園内に設けられている鳥のためのサンクチュアリー(聖域)であった。聖域は公園内の数ヵ所にあり、厳重な柵で人間を入れないようにした鳥の楽園で、鳥の専門家が1人か2人いて、鳥の面倒を見たり、訪れる人に鳥との親しみ方などを教えている。鳥は人間のためにサービスするのであるから、休養するプライベートルームが必要であるとの考えに基づくものであった。

これに学び、東京のオリンピック村のあとに代々木公園ができた時、私が設計して鳥の聖域を作った。人間が入れないようにしたが、鳥の面倒を見る人を置かないため、キジなどは大分ふえ、開門前は公園内を散歩しているのだが、開門して人間が来ると聖域に逃げ帰ってしまい、出てこない。仏作って魂入れずとはこのことである。

ロンドンからオランダに行った。日本で埋め立て地の鳥類保護で苦労していた時なので、干拓と保護の実情を見に行ったのである。オランダでは干拓の時には最初から保護を考慮に入れていた。護岸の堤防でも、海の側に幅広く、ゆるやかな斜面を作る。ここにカモなどが来て休んでいた。また多くの湿地が、鳥のために残してあった。このように保護が十分に行われているため鳥も大変多く、朝から夕方までの間に57種の鳥を数えることができた。日本では最も鳥が多いと言われているところでも15種か20種だ。

保護の教育も徹底している。ヒバリ類とかコマドリ類などの益鳥を飼うことは法律で禁じられ、ホオジロ類など、穀物を食べる7種の鳥だけが許可を受ければ飼えることになっているが、この時までの25年間に許されている鳥を飼う許可証を願い出た人は1人もないという。鳥カゴで飼うことは鳥を牢獄に入れて苦しめるのだという考えが一般化しているのである。これに反して日本でも小鳥を飼うのには許可がいるのだが、この規定が全く無視されて無許可で飼っているものが多い。

これらの世界会議の中間の年、昭和39年では香港で、昭和44年にはインドで、昭和51年にはインドネシアのジャカルタでICBPアジア大陸部会が開かれ、アジアの人々だけの話し合いが行われた。

また、鳥の会議ではなかったが、昭和40年アメリカのスミソニアン研究所の創立者スミソンの生誕200年祭に招かれた。研究所は米国の頭脳であり、総長は国務大臣である。そのリプレイ総長がICBPの会長でもあるため招かれたもので、世界の主要国の学者約500人が集まり、米国会議事堂前で「学者の行進」を行った。学者たちはみなそれぞれの大学の博士のガウンを羽織るのだが「日本にはそういうものはない」と言ったところ、リプレイ総長が「これを着なさい」とハーバード大学のガウンを貸してくれた。このあとホワイトハウスの庭でケネディ大統領主催のパーティが開かれた。

ちょうど宇宙飛行士が月の石を持って帰ったばかりで、その最初のものがスミソニアン研究所で公開されたので、見せてもらったが、おそらく私が月の石を見た最初の日本人であろう。

(日本経済新聞 1979年5月20日)

▲ このページのトップへ