山階芳麿 私の履歴書

 

第15回 分類学に疑問

雑種の研究に打ち込む 北大で細胞学の手ほどき受け

財団法人山階鳥類研究所が発足する少し前、各地に人を派遣したり、私自身が出かけたりして標本採集したことは既に述べたが、それらの標本が続々と到着すると私はそれらの分類に没頭した。

分類学は、19世紀になって各地の探検が盛んになり、博物館標本が豊富になるにつれて鳥学の最もアカデミックでオーソドックスな研究分野となった。わけても標本の骨格や色、形などによって分類する形態分類が主流をなし、それにより、属、種、亜種を定めていくのである。

こうした規則にのっとり、多くの標本を分類していくうちに、私は次第に従来の分類学に疑問を抱くようになった。たとえばにわとりなら、小さなチャボから大型のコーチンまですべて同じ種である。他方、日本のスズメとヨーロッパのスズメなどは両方を並べてみなければ区別がつかないほどだが、全く異なる種に分類されている。日本へ夏渡ってくるカッコウとツツドリも外見では見分けがつかないほどよく似ているが別種となっている。

かつては同一種であったものでも、違った環境の下に生息し形態に変化が生じた時に、別種に分類されるのであるが、どこまでを同種とし、どこからは別種とするのかきわめてあいまいである。はっきりした根拠がないまま、研究者の主観的な判断で決めてしまっている。何か根拠となるものはないのであろうか? こう考えた私はまず雑種の研究に取り組んでみた。

鳥の雑種は羽の色などが両親の種類の中間のような色になる。この色について外国の学者の中には、両親が遠い昔にまだ同一種だったころの祖先の色が表れるのだと主張する人もいた。私はたくさんの雑種を作ってみてその雑種に表れてくる色の変化を研究したが、この説も妥当性を欠くものであった。雑種作りをしている中で気付いたことは、雑種の子供はできても、なかなか孫ができないことである。

ちょうどこの点に気付いた時に、恩師である北大の小熊捍(おぐま まもる)先生にめぐり会ったことは私にとって幸いであった。小熊先生は動物の細胞学の研究者として第一人者であり、ベルギーに留学してヒトの遺伝について研究し、帰国後、北海道帝国大学の理学部長を務めておられた。

小熊先生との出会いは、時事新報社の伝書鳩(はと)についての座談会の席上という偶然のものであった。当時、新聞社は原稿の送稿によく伝書鳩を使っていたが、陸軍も通信の手段として重視し、ベルギーから輸入した鳩を使い、中野電信隊で鳩部隊を作っていた。鳥好きだった私はそこに出入りして伝書鳩を分けてもらって研究していたし、小熊先生もベルギーで伝書鳩に興味を持って研究なさっていたのであった。

この座談会の席上、私が雑種を研究していることを話して「雑種に孫ができないのはどうしてなのか、先生ひとつ研究してみてはいかがですか」と勧めてみたところ「それは面白そうだからやってみよう」ということになった。早速、私のもとにあった資料をさし上げたが、小熊先生はそれをもとに論文を一つ書いて学会に発表された。

このあと、先生は「この研究は大変面白いから、ひとつあなた自身でやってみませんか」とおっしゃった。私が「細胞学のことは知らないから……」と言ったところ、「それなら私の所に来れば教えてあげる」とすすめて下さった。昭和14年のことである。その年の夏から、札幌の北大理学部の小熊教室にしばしば通うことになった。

春休み、夏休みなど、学生のいない間に2、3週間、あるいは2ヶ月と、理学部長の小熊先生、助教授の牧野佐二郎先生らから手ほどきを受けた。小熊先生は亡くなられたが、牧野先生は現在もご健在で、北大名誉教授、学士院会員。動物の細胞学の世界的権威として恩賜賞も受賞しておられる。

細胞学の研究に欠かせない顕微鏡の切片作りの技術から始まり、次いで、雑種の孫がなぜできにくいのかという、雑種不妊性の研究を、細胞の集まりである組織の面から行ったのである。

(日本経済新聞 1979年5月11日)

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