山階芳麿 私の履歴書

 

第13回 採集旅行余話

珍鳥を追ってソ連領へ 朝鮮生き別れ父子の橋渡しも

今では考えられないような思い出の標本採集旅行もある。

昭和9年に樺太に行き、日ソ国境付近で採集した。このあたりには珍しい種類の鳥がたくさんいる。そのために折居、山田、私の三段階で調査したのである。調査のために日ソ国境を越え50メートル以上もソ連領に入ることもあったが、当時は日本が強かったからか、それとものんびりしていたせいか、ソ連側でも知らん顔。発砲事件などは起こらなかった。

現在、この地域の標本は当然のことながら全く手に入らない。最近、日ソ領土問題が注目されているところから、ソ連側では樺太についての知識が全くないのは調子が悪いというので、樺太や千島の鳥の調査を非常に熱心にやっている。ところが、その資料として使われているのが私がかつて研究し発表したものなのである。思わぬところで役立っているものだ。

もう一つは昭和11年に行った朝鮮半島の採集旅行である。この時は平壌の安州農林学校の先生をしていた元洪九という鳥に詳しい人に案内してもらったり、採集を手伝ってもらったりした。ところが朝鮮戦争のために父の元洪九は北に、息子の元炳旿は南にと離れ離れになってしまった。

元炳旿も鳥類学者となり、大学の教授として私の研究所に留学していたが、父子で直接文通することはできない。そこで私が親子の橋渡し役をすることになった。父が私の所に手紙をよこす。私はそれをそのまま送るわけにはいかないから、読んで差しさわりのないところを息子のところへ書き送った。息子もまた同様にする。朝鮮戦争直後から二十数年、ずっと橋渡し役を続けた。先般父の元洪九が亡くなり、ついに父子の対面はかなわなかったが、私がこのような役目を続けられたのも、やはり学者という立場であったからではなかろうか。

このほか、昭和10年から12年まで3回にわたって行われた琉球列島の生物総合調査を標本館が援助した。この調査には私は行っていないが、既に稀種とされていたノグチゲラの生態を初めて観察したのをはじめ、哺乳類や魚類、爬(は)虫類、昆虫類などに多くの新種を発見している。琉球列島は今次大戦で大きな被害を受け、戦前の標本などほとんど失われているので、この調査は貴重なものであった。

これらほぼ10年間にわたる日本及びその周辺における鳥類や生物の調査によって、約3万1000点の鳥の標本、2000点弱の鳥卵の標本、650点の鳥巣の標本、1100点余の獣類標本、135箱の昆虫標本などを集めることができた。

新種の鳥に命名することを新種記載というが、これらの採集、またその後の調査などで私が新種記載した鳥類は2属2種40亜種、哺乳類は4種にわたっている。哺乳類、昆虫や魚類は自分の専門外なので、他の人に調べてもらって命名もお願いした。

鳥の新属はハシナガメジロ属(昭和6年)とカキイロズク属(同13年)、新種の中には、ハシナガメジロ、チャバラヒタキ、新亜種にはカラフトウグイス(同2年)、マリアナキメジロ(6年)、オリイハシブトガラ(8年)、ダイトウミソサザイ(14年)、クロアマツバメ(17年)、タカサゴモズ(19年)などがある。

また学名や和名にヤマシナの名を冠したものも、鳥や獣やいろいろな動物にいる。ヤマシナナンヨウヨシキリ、ヤマシナジネズミなどだが、中にはヤマシナオオゲジゲジなどというのもある。この大きなゲジゲジは琉球列島には大変多いもので、採集したが日本では研究者がいないため、ドイツ人に調べてもらったものだ。

これらの新種の標本を中心にして、日本鳥学会は昭和17年に「日本鳥類目録」の改訂第3版を出版したが、この本は世界的に価値を認められ、戦争中、国外に流出した1冊を、敵国であったアメリカが復刻出版して各国に配ったというエピソードがあるほどだ。

(日本経済新聞 1979年5月9日)

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