山階芳麿 私の履歴書

 

第9回 結婚

見合いして「文句なし」 鳥研究熱おさえ難く軍を去る

結婚は大正14年4月21日であった。妻寿賀子は、徳川譜代の大名で、若狭小浜城主酒井氏の子孫で伯爵酒井忠道と績(のり)子の長女であった。明治38年12月29日生まれで、大正12年に女子学習院の専修科を卒業している。

見合いは寿賀子の兄忠克と、私の姉安子の嫁いだ浅野長武とが親しかったところから、浅野の家でした。素直で、文句のつけどころのない人との印象であった。この後、半年ほど交際を続けてから挙式したが、私が25歳、寿賀子が21歳だった。絵を習っていたので、結婚後は鳥の研究に不可欠なスケッチを受け持ってくれた。国内国外の研究旅行にはいつも一緒に行き、ある時は1日別行動をとって鳥の生態をスケッチするなど、研究の上でも大変に良い伴侶となった。

陸軍では新鋭部隊、新鋭部隊へと配属され、最新の知識と工夫を必要とする部署に配置されて、それなりの興味はあったのだが、私にはいつもこのままでいいのだろうかという疑問があった。その気持ちがこのころから大変強くなり、軍をやめたいと考えるようになった。その原因の一つは自分の体力に限界を感じたことであり、一つは軍が私の性格に合っているとは思えないこと、そして最大の原因としては鳥の研究に全力を注ぎたいことであった。

自分の体力については、幼時から病弱で扁桃腺(へんとうせん)肥大や風邪のため、しばしば発熱していたので治療に努めたが、士官学校、野戦重砲兵連隊勤務後も一向によくならず、病気休暇を繰り返していた。演習なども身体にこたえ、これ以上続けることはむずかしいと感じるに至った。

また、人に強制する指揮というのも、私の性格には合っていなかった。どうしても軍人は合わないからと言って、皇族としてただ1人軍服を着なかった祖父晃親王の性格が隔世遺伝したのであろうか。

鳥の研究については、初めは私の父が気象学や地震学を海軍士官でありながら研究し、大きな成果を上げたように、趣味でやってゆけばよいと考えていた。だが、研究を続けていくうちに、興味は深まるばかりで、どうせやるなら本格的にやりたいという気持ちが非常に強くなってきた。

陸軍をやめたいという気持ちを世話になっている上官らに話したが、明治天皇の御沙汰(さた)があったことでもあり、簡単にやめるというわけにはゆかない。そのかわり技術が好きならそちらに行くようにということで、大正15年5月に陸軍技術本部付きとなり、大砲の設計をする部に配属された。けれども技術に対する熱もそのころには冷めていた。

昭和元年から2年にかけて、南樺太に人を派遣して集めた標本が続々と到着しはじめたのも、陸軍をやめたいと切実に考えるきっかけとなった。世話になっていた宇垣一成大将や鈴木孝男大将に相談し、結局やめさせてもらうことになった。

陸軍をやめ、予備役編入となったのは昭和4年2月28日である。その前2年間は休職となっていた。普通、休職となると1年後には予備役編入となるのだが、2年近く待っても連絡がない。東大の動物学教室に4月に入るためにはその前にやめていなければならないので、何がなんでもやめさせてくれと頼んで、2月末に予備役編入となったものである。

こうして8年間勤務した陸軍を去ったのであるが、陸軍にいたことは私にとって大きなプラスとなったと思っている。軍で学ぶ戦術というのは、要するに相手に負けない方法の研究だから、言わば処世術の根本だ。また高等数学や理論物理学など論理的な研究を多くしたが、これは鳥の研究に大変役立った。というのも、当時の研究は、分布や生態の観察が中心であって、理論的な部分が欠けていたのである。そうした点をしっかり学び得たことは後に大変役立つことになった。また規則的な生活習慣に慣れたことも大きな収穫であった。

(日本経済新聞 1979年5月1日)

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