山階芳麿 私の履歴書

 

第3回 誕生

赤ん坊の時は健康優良 母は早世、島津家から継母

がんこで自分の考え通りに生きた祖父・晃親王、サイエンスに関心の強かった父・菊麿王、鳥が好きだった母・範子……。そうした人々の血を受けた私が、山階宮家の二男として生まれたのは、明治33年7月5日のことである。この年は西暦では、ちょうど1900年に当たる。後に研究生活にはいり、国際的な仕事も多くなると、もっぱら西暦を使うので、自分の年齢を数えるのに便利であった。ただ、この年は19世紀の最終年なので、前世紀の生き残りと言われても仕方がない。

余談はさておき、生まれた時の私は大きくて元気のいい赤ん坊だったようだ。「松印様御評量御控」という記録がある。幼いころ、私は松印様と呼ばれていた。それには「身丈一尺六寸五分(約50センチ)、躰量九百六十匁(3600グラム)」とある。幼稚園に行くころからさまざまな病気にかかり、それが鳥類学者への道を選んだ一つの原因だが、生まれたては、健康優良児だったのである。

誕生の地は、東京市鞠町区富士見町5ノ1の山階宮邸。靖国神社の北東、今はその一部が衆議院議員宿舎になっている。このあたりは屋敷町で、近所には岩手の殿様の南部伯爵邸、対馬の殿様の宗伯爵邸などがあった。邸は敷地が5500坪(約1万8000平方メートル)ほどあり、建物は宮家の公務をつかさどる「表」と、私生活に使う「奥」とに分かれていて、その間には応接間や広いダンスの間があった。

洋行帰りであり、たいへんハイカラだった父は、生活はすべて西洋式にした。私も生まれるとすぐ、ベビーベッドで育てられたし、物心ついてからもテーブルといすの生活をしていた。今でこそ全く当たり前の生活だが、七十余年前の明治のころでは、まだまだ珍しい生活と言えるだろう。

私は二男だが、兄武彦は明治31年2月生まれで、私よりも2歳半ほど年上である。父の影響のうち、私に動物好きが現れたとするなら、兄には機械好きが現れた。邸の中庭には小さな作業場があって旋盤なども置いてあり、ちょっとした工場のようだった。父は水雷艇による夜襲を防ぐための装置などを発明している。軍港の入り口にブイをいくつも浮かべてクサリでつなぎ、それに触れると信号の火が噴くものだ。そうしたものを考案する時など、この作業場を使ったのである。

そうした父の影響を受けた兄は、父の死後山階宮家を継ぎ、海軍に入って横須賀海軍航空隊付きとなった。この航空隊にはF5という飛行艇があったが、時には霞が浦から飛行船が飛んで来ることもあり、私は兄の知らせで、これらの飛行艇や飛行船に乗り、東京湾を1周する機会にめぐまれたこともある。大正の半ばには兄は自家用飛行機に乗り始めたが、これは日本の自家用機操縦の最も早い例の一つであり、"空の宮様"などと呼ばれたりもした。立川の陸軍飛行場の一隅に格納庫を作らせてもらい、複座の複葉機を操縦していた。しかし自家用機の方は敬遠して私はついに乗らなかった。

私が1歳と4ヵ月ほどになった明治34年10月末に妹の安子が生まれた。安子は後に東京国立博物館長になった安芸の広島の殿様浅野長武侯爵のもとにとついでいる。だが、安子が生まれて2週間もたたない11月11日に、産後の肥立ちが悪かった母が亡くなった。22歳であった。

3歳を頭に、生まれたての妹まで、3人の子供を残された父は、母の一年祭が過ぎると再婚した。新しい母は、公爵島津忠義の第三女常子(ひさこ)で、今の皇后陛下のお母さんの姉にあたる。私にとって、天皇陛下は生母を通じ、皇后陛下は養母を通じ、ともにいとこにあたる。明治35年11月に結婚の勅許がおりて、同月末近く式を挙げた。この母からは藤麿、萩麿、茂麿の3人の弟が生まれた。

藤麿は明治38年2月生まれ、明治天皇の御沙汰で、伊勢神宮の祭主になるよう定められていたため、軍人とはならずに東大に入って国文学を勉強した。筑波侯爵家を立てたが、時世が変わったため神宮祭主とはならず、戦後靖国神社の宮司となり、昨年3月に亡くなった。藤麿もまた神社界ではアイデアマンなどと言われていたようだから、やはり父の血を色濃く継いでいたのであろう。萩麿は海軍に進み鹿島伯爵家、茂麿は陸軍に進み葛城伯爵家を起こしたが、ともに若くして世を去った。

(日本経済新聞 1979年4月28日)

▲ このページのトップへ