江戸時代の漂流民が見た鳥島

 其近辺に岡道も有之哉と尋候へ共、道もなく、嶮岨なる岩陰の焼山にて、少々伝はり易き場所を見付、夫より漸々よち登り候処、すき間もなく薄き(すすき)生しけり、中々歩行も難成候へ共、いろいろ工夫いたし押分押分通過候得は、山の中段より余程うへに広き平地の場所え出申候、其所は一面白鳥、黒鳥集り、足のふみ間もなく、誠に美敷事に御座候、なをまた大鳥にて目を驚かし、如何様の事にてかほとまて鳥集り候哉とあきれ果申候、....、先々道をいそき谷へ下り、夫より山へ登り、やうやう上へ出候て遠近見渡候処、目も届かぬ程の広き場所にて、其所は只一面に鳥計並居、夥事限りなく、誠にあきれはて申候、其鳥の中を押分押分通行、南の峠へ出候間に、....

(その近くに山道があるかと探しましたが、道もなく、けわしい岩陰の溶岩地で、すこし伝わりやすい場所を見つけ、それから少しずつよじ登りましたところ、すき間もなくススキが生い茂り、なかなか進むことが大変でしたが、いろいろ工夫してススキを押し分けながら通り過ぎてゆきますと、山の中段よりよほど上に広い平地のある場所に出ました。その場所は、一面に白い鳥、黒い鳥が集り、足の踏み場もないほどで、まことに美しいことでした。これらの鳥がまた大きな鳥なのでびっくりし、どういうわけでこんなにまで鳥がたくさん集っているのかとあきれました。...先々道を急いで谷へ下り、それから山に登り、やっとのことで上に出て見晴らしますと、目も届かない程の広い場所で、そこはただ一面に鳥ばかり並んでいて、その数のおびただしいことといったら限りなく、まことにあきれ果てました。その鳥の群れの中を押し分け押し分け進んでいって南の峠に出ましたところ、....)

(「九州肥前寺江村金左衛門船、荒浜御城米積受け下り候に付、大坂北堀備前前屋亀次郎船に相成、無人島え漂流之日記」より。天明7(1787)年12月に、大坂北堀江の亀次郎に雇われた肥前寺江村の金左衛門の船が犬吠埼沖で漂流し、翌年2月に鳥島に漂着した際の漂流記。彼等は鳥島で2年前に漂着していた土佐船の生き残りである長平に出会い、アホウドリや魚を食べて生き延び、10年後の寛政9(1797)年に自分たちで作った小船に乗って青ヶ島・八丈島を経由して江戸に帰った。文中の「白鳥」はアホウドリの成鳥、「黒鳥」はアホウドリの若齢個体またはクロアシアホウドリであろう。原文は、加藤貴校訂. 1990. 漂流奇談集成. 叢書江戸文庫1. 国書刊行会.より。)

 

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