所蔵名品から

第18回 日本の鳥類生態写真のフロンティアを駆け抜けた 下村兼史
― 「ツツドリのヒナを育てるセンダイムシクイ」ガラス乾板―

撮影者 下村兼史
撮影日 1930年5月20日
撮影地 富士山麓須走(現:静岡県駿東郡小山町)
サイズ  10.8cm×6.3cm(破損前の乾板サイズ:10.8cm×8.1cm)

山階鳥類研究所が所蔵するモノクロ写真関連の資料はあまり知られていないようです。絶滅したと考えられた以前の鳥島のアホウドリを記録した山階芳麿博士の16mm画像、日本で野鳥関係では最初に開かれた大型の国際会議「国際鳥類保護会議(ICBP)」(1960年)の記録写真、野鳥生態写真の草分けである下村兼史のモノクロ写真など、貴重なものがあります。

今回は下村兼史を紹介しましょう。

現在のようなフィルムやデジタル画像が登場する以前には、ガラス板の片面に感光乳剤が塗られた乾板(ガラス乾板)が使われていました。その乾板時代にすでに野鳥の生態写真を撮っていたのが下村兼史(1903~1967)です。1922年1月5日の夕方、シャッター速度5分の1秒でカワセミを写したのが、日本での野鳥の生態写真第1号でした。

以後、下村は生態写真を撮り続け、その道の映像作家として生涯を駆け抜けた日本で最初の人です。また自ら描く図版の野鳥図鑑や観察撮影紀行などの著作(写真1)、カメラの後に手がけた記録映画の脚本・監督など、多彩な活動をしました。

写真1:「鳥類生態写真集」第1-2集(1930-31年刊)。このセンダイムシクイの写真が収録されている。日本で最初の本格的な野鳥の写真集である。

研究所の書庫には、下村が生涯撮ったほとんどのガラス乾板、モノクロネガフィルム、下村自身が引伸ばしたと思われる大小のプリントなどが保管されています。

それらの中から一枚だけを選び出すのは至難の業ですが、代表作と目される「ツツドリの雛を育てるセンダイムシクイ」に注目してみましょう。富士山麓須走で1930年5月20日に撮影されたこの一枚はいろいろの側面を今に伝える貴重な資料です。ご覧のように、ガラス乾板の一部が破損しているのも、乳剤面の劣化が進んでしまったのも、乾板の運命や時の流れを伝えています。

ちょっとピンボケではないかですって? 確かにデジカメのヒリヒリするようなシャープなピントに較べればそうですが、暖かいノスタルジックな雰囲気が滲みでているではありませんか。

ご想像ください、今から77年前に野鳥の生態写真を撮る苦心を。下村が使ったと思われるカメラ、グラフレックス(写真2)が、下村資料の一環として研究所に保管されています。それはまるで小型の四角い腰掛けのようです。量ってみたら皮ケース共で5キログラム(カメラは3.9キログラム)もあるシロモノでした。

写真2:下村兼史が愛用したグラフレックス。

乾板の重さや扱いはフィルムとは比較になりません。一枚撮っては裏表を返し、2枚一組で入れ替えます。手札判乾板1箱12枚入り(写真3)、12回シャッターを切ったら終わりです。何箱も持ち歩けないし、その気もなかったということです。下村自身の記録に、4年余りで601枚撮ったとありました。単純に平均して1ケ月に約12~3枚です。当時の1回のシャッターの重みが偲ばれます。うっかりガラス乾板を落としてガチャン、傑作も永久にオジャンです。フィールドでも室内でも、取り扱いの気苦労は絶えません。デジカメとは、なんたる違い!

写真3:ガラス乾板のパッケージには、下村兼史が書いた資料整理用の番号と思われる数字などのメモが残っている。

交換レンズを加えた重いカメラ一式、さらに木製三脚、撮影用小型テントなど。車に積んで撮影地まで一っ走り…するのは、夢のまた夢。

そんな条件下で、小鳥であるセンダイムシクイがはばたきながら「我が子」ツツドリの雛に餌をやる瞬間を撮ったのですから、まさに「神業」と言えましょう。

この写真は、1935年ロンドンで開かれた「世界自然写真展(International Exhibition of Nature Photography)」に日本から出展された9人、50点のうちの1枚で、批評家から好評を博したそうです。因みに、展覧会のあとで出版された傑作写真集『Nature in the Wild』には、日本からは下村兼史の作品4点だけが選ばれました。

下村が若くしていかに傑出した鳥類の生態写真家だったかが、これらのことからも伺えます。数ある下村の撮った写真の中から1枚だけの紹介でしたが、下村のほとんど全ての写真資料が山階鳥類研究所に整理保存されているのは、鳥類生態写真史にとっても鳥学にとっても素晴らしいことです。
(山階鳥研 客員研究員 塚本洋三)

山階鳥研NEWS2007年11月1日号(NO.214)より

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