所蔵名品から

第7回 東京市場(トウキョウ・マーケット)で何が買えるか
ーサカツラガン(帝大理科大学標本)ー

種名 サカツラガン Anser cygnoides
性別 メス
番号 25895
採集日 1893年3月
採集地 Tokyo Game Marketで購入

現在「東京市場」と言ってまず第一に思い浮かぶのは、ドルやユーロを売り買いする外国為替市場でしょうか、株が取引きされる株式市場でしょうか?今から100年前の東京に、食用の野鳥を売る市場があったと言っても信じられないかもしれません。

今回紹介するサカツラガンの研究用剥製標本のラベルには、トウキョウ・ゲーム・マーケット(Tokyo Game Market)という地名と1893年3月という日付が記入してあります。「ゲーム」というのは狩猟鳥獣のことですから、明治時代の東京に、狩猟された野鳥を食用に売る市場があったことがわかります。

ラベルには印刷でSci. Coll. Mus.とあり、サイエンス・カレッジ・ミュージアム、すなわち帝国大学理科大学(現在の東京大学理学部)にあった博物館のラベルであることを示しています。これらのことから、この標本は、帝国大学の動物学者が明治26年3月に、東京の狩猟鳥獣市場でなまの鳥を購入して作成したものであると推察できるのです。後に日本鳥学会の初代会頭となる飯島魁(いいじま・いさお)が、1886(明治19)年に理科大学の動物学の教授の職に就いていますので、この標本も飯島が収集したものかもしれませんが、ラベルには研究者の名前は残っていません。

サカツラガン標本のラベル
下のラベルの中段にTokyo Game Marketの文字が見える。
上のラベルは山階鳥研に移管後に付けられたもの。

ガン類はカモ類よりも大形で、日本には冬に渡来する水鳥ですが、現代の関東地方ではほとんど見られません。しかしこれらの鳥たちも、明治時代には東京でもふつうに観察できたことがいろいろな資料からわかります。森鴎外の小説「雁」は、明治13(1880)年のある日、上野の不忍池に休んでいた10羽ほどのガンが物語の重要なエピソードの一端を担います。時代がやや下りますが、山階鳥類研究所の創立者の山階芳麿は、幼少時代の思い出として、日露戦争(1904-05)の戦後、皇居外苑の芝生にガンが下りていた風景を回想しています(「鳥の減る国増える国」)。このガンの群れは当時山階邸のあった麹町の上空を毎日、朝と夕方、鳴きながら往来していたそうです。森鴎外や山階芳麿が見たガンの種類はわかりませんが、そのなかにサカツラガンも入っていたかもしれません。いずれにせよ、当時の東京は現在からは想像もできないほど自然が豊かで、鳥の生息地が豊富な、いわばのどかな場所だったことがうかがえます。今回ご紹介しているサカツラガンの標本も、正確な採集地は不明ですが、当時の交通の不便さや自然の豊かさを考えれば東京の近郊で採集されたものと考えられます。この標本は、人が自然のめぐみとともに生きていた時代の、貴重な証拠なのです。

サカツラガンは、中国東北部・モンゴルなどで繁殖し、おもに揚子江の中流域で越冬するほか一部が朝鮮半島・日本などに渡りますが、従来から個体数の大幅な減少が報告されています。日本では、昭和のはじめ(1930年頃)には千葉県の東京湾岸で100羽ほどの群れが越冬していた記録があり、大平洋戦争前にはそれほど珍しくなかったのでしょう。しかし現在は日本国内で定期的に渡来する場所はどこにもなくなり、全国の渡来数も多くても数羽程度というところまで減ってしまいました。日本での減少はひとつには日本国内での生息環境の減少が原因となっているのでしょうが、よりおおきな減少の原因は主な生息地である中国大陸での生息環境の悪化や狩猟にあると考えられています。現在の日本ではこの鳥はもちろん狩猟鳥から外されていて、捕まえて食べたりすることはできません。

理科大学標本には、ほかにも同じ頃に同じ市場で購入されたガン類(ヒシクイ、コクガン、シジュウカラガン)やカモ類があります。これらを含む約2000点の理科大学標本は、1939(昭和14)年に山階鳥研に移管されました。その中にはこのほかにも明治時代の鳥類相を示す非常に貴重な標本が多数含まれており、また日本鳥類学草創期の模式標本など学問的に重要なものがあります。今後も折を見てそのなかからいくつかをご紹介してゆきたいと思います。(資料室標本担当 平岡考=ひらおか・たかし)

山階鳥研NEWS 2001年6月1日号(NO.147)より

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