山階芳麿のまとめた戦前のアホウドリのようす

 伊豆七島南部の鳥島には曾て非常に多數のアハウドリが棲息して居た。其の状況は服部徹氏が「動雜」I, p. 405(明治22年10月15日発行)に詳記して居られる。其の後羽毛採取の移民が入島して盛んに捕殺し、島の頂面には羽毛運搬のため輕便鐵道が敷かれ、其の一端から千歳灣に鐵索がかけられて居たと云ふから如何に大規模の殺戮が行なわはれて居たかが分ると思ふ。服部氏の渡つた明治21年には未だ餘り盛んに捕って居なかったらしいが、夫れでも40人の移民の内男は皆捕殺に従ひ、1人1日100~200羽を殺したと云ふから此1シーズン(10月から翌5月迄)だけでも10万羽は殺したであらう。田中館秀三氏(讀賣新聞、第22712號(昭和14年4月17日))によると明治31年から愈々多數の移民が入島し、一時は人口300に達する安楽郷?を現出し、羽毛は盛んに海外に輸出されたと云ふから、明治35年8月に鳥島が爆發して島民が一舉に全滅する迄に捕獲されたアハウドリの數は少く見積もっても500万羽はあつたであらうと思はれる。斯くてアハウドリが次第に減少した處へ、明治35年8月の大爆發が起つた。爆發は幸にもアハウドリの棲息しない時季に起つたが、島の變形と噴煙のため其の年の秋にはアハウドリの大部分は島に歸って蕃殖出来なかったであらうと思はれる。明治39年にアハウドリは保護鳥となつたが、警察力の及ばない孤島の事であり羽毛採取は依然として継續せられ、從つてアハウドリは次第に減少の道を辿り、昭和4年2月に山階が鳥島を訪うた時は既に2000羽内外となり(鳥、vii, no. 31参照)、昭和7年4月に山田信夫氏が行つた時は僅々數百羽となつた。そして昭和8年4月に山田氏が再び同島を訪うた時には僅かに數十羽を見たに過ぎなかつたと云ふ。之れは蕃殖地が昭和7年春から牧場となり、多くの牛が放飼されて蕃殖が困難となつた事にも依るが、夫れよりも昭和7年12月以後島の住民により最後の大虐殺が行なはれたのに依るらしい。島の小學校の藤澤某氏が昭和8年4月に語った處によると昭和7年12月以後の數ヶ月に撲殺された數は3000羽に上ると云ふ。併し他の島民は此の點に就ては少しも語らず、單に昭和7年11月に暴風があつてアハウドリが減じたと云ふのみである。併し恐らく藤澤氏の言の方が正しいであらう。昭和8年8月に鳥島は禁獵區となつたが既に手後れと云ふべきである。或は近く禁獵となる事を知つて昭和7年の大規模の撲殺が行はれたのかも知れない。そして昭和14年8月に第二回の大爆發が起つた事は吾々の記憶に新しい事である。今回の爆發も亦アハウドリの不在中の夏に起つたのであるが、之れが絶滅に瀕せる鳥島産アハウドリに最後の止めを刺したものなる事は疑ない。危險を知らない海鳥の群が事情の變化に從つて絶滅した例は他にも多いが、鳥島のアハウドリの如きも其の顕著な1例と云へやう。

(山階芳麿(1942)「伊豆七島の鳥類(並びに其の生物地理学的意義)」「鳥」11巻53-54号より。一部パソコンで対応しない漢字を同義の漢字に改めた。)

 

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