NHK教育テレビ「視点・論点」2004.3.31放送より

野鳥と鳥インフルエンザ

山階鳥類研究所所長 山岸 哲(当時、現・名誉所長)

山岸哲写真わが国で79年ぶりに発生した「鳥インフルエンザ」は、山口県、大分県、京都府と所を変えて大きな騒動を引き起こしましたが、幸い人への感染もなく終息を迎えようとしています。しかし、京都では、野生のカラスが鳥インフルエンザで死亡したことから、「野鳥と私たちの付き合い方」が今大きく問われています。たとえば、私どもの研究所にも、「カラスが家に来ないようにするにはどうしたらいいのか」とか「ペットを飼っているが、このまま飼い続けていいのか」とか「ツバメに巣を作らせない手法を教えてくれ」などの相談電話が後をたちません。これまで、人間が長い間培ってきた、渡り鳥をはじめ、野鳥たちと人との友好関係も今や崩壊の危機に面しています。

今回の鳥インフルエンザの発症で、「カラスからウイルスが分離された」とか、「韓国でのウイルスと遺伝子がほぼ同じだった」という結果だけで、他の可能性をまったく探らないまま、野鳥が病原体の運び屋であるに違いないと、まことしやかに流布され、極端な場合は渡り鳥を駆除せよとか、処分せよとまで言われるに及んでは、事は行きすぎだと言わざるを得ません。こうした状況のもとで、ものが言えない鳥の立場に立って、この問題を考えてみようと思います。

ところで、カラスは「鳥インフルエンザ」の放火犯であるかのように忌み嫌われていますが、そもそもカラスは養鶏所から「とび火」をもらった被害者であるという認識に立つことがまず大切だと思います。つまり、ともすると野鳥は鶏舎へのウイルスの運び屋として、捉えられようとしていますが、野鳥の立場からするならば、逆に鶏舎から野鳥への鳥インフルエンザの流出や感染をいかに効果的に阻止するかの手立てを考える必要があるでしょう。そうしてやることが、私たちの野生動物への思いやりではないでしょうか。

また、このことと関連して、鶏舎へウイルスを運び込んだ犯人として、渡り鳥など野鳥のみが槍玉に上がっていますが、これはやや片よった見方ではないでしょうか。交通機関の発達に伴い、人や物資が短時間で長距離の移動ができるようになった現在、人間による伝播の可能性について、今回どれほど調べられたのでしょうか。はなはだ心もとないところがあります。

「鳥インフルエンザ」がこれほどまでの社会問題になった原因の一つは、マスコミの報道のし方にあったと思われます。野生鳥類に専門でない一部の研究者から、安易に流されたあまり証拠のない憶測や類推が、どれほど社会を混乱に陥れたかということを研究者の側も謙虚に反省しなければならないでしょう。また、マスコミの側も、いたずらに不安や恐怖をあおるだけではなく、しっかりと裏を取った科学的情報を流してほしかったと思うのです。渡り鳥は確かに鳥インフルエンザ・ウイルスを保有することがあります。しかしそうした場合のほとんどは低病原性のウイルスであり、そのままでは人には感染しません。また、鳥インフルエンザ・ウイルスの潜伏期間は約一週間と考えられていて、人が鳥インフルエンザに感染する可能性があるのは、感染した鳥に濃密に接した場合に限られています。鳥インフルエンザ以外でも、野生の鳥たちは死亡しますし、寿命が尽きて死ぬ場合が多いのです。死んでいる鳥を見つけても、パニックに陥ることなく、冷静に対処してほしいと思うのです。

さて、問題の渡り鳥の移動経路についてですが、これは網を張って渡り鳥を捕らえ、その足に足輪をつけて放鳥して、もう一度捕まえるという、鳥類標識調査によって調べられています。

そして、これについては、わかっていないことが多く、特に韓国、中国、東南アジアでの標識調査が立ち遅れていることが、移動経路の研究に決定的な隘路となっています。 いずれにしましても、人畜共通感染症の病原体の拡散や感染経路については、まだまだ不明な点が多く、鳥型インフルエンザのようにウイルスそのものの性質もはっきりわかっていない状態です。このような状況のもとで、果たして本当に鳥が病原体を運んでいるのかどうか。鳥とヒトとの共通感染症の実態解明に向けての地道で息の長い調査研究が必要でしょう。具体的には、渡り鳥の研究機関と感染症研究機関との共同研究による、野鳥を検体とした長期間継続した病原体保有のモニタリングを実施することがまず重要です。

実は私どもの研究所でも、こうした調査を過去に実施したことがあります。今から40年ぐらい前に、アメリカの病理学研究所の依頼で、アジア数カ国の研究機関と協力し、渡り鳥に関するウイルスや、鳥に寄生するダニ類、その他の寄生虫を調べたという記録が残っています。不幸にして、この研究は打ち切られてしまいました。今こそ、こうした取り組みが再開されるべきでしょう。

最後になりましたが、法律の面でも問題があります。家畜については「家畜伝染病予防法」で、その取り扱いがきちんと決められていて、「高病原性鳥インフルエンザ防疫マニュアル」や「動物展示施設における人と動物の共通感染症対策ガイドライン」などがすでに存在するのに、野生動物に対しての同様な法律やガイドラインがないということも忘れてはなりません。

以上のような状況の中で、日本鳥学会も「鳥インフルエンザ問題検討委員会」を立ち上げて、鳥類学の立場から総合的に現在検討中のようです。この結果も大いに期待できるところでしょう。今回の「鳥インフルエンザ問題」は、事が多岐にわたるので、農水省、経済産業省、厚生労働省、文部科学省、外務省、環境省など、各省庁の壁を越えて、統合的に解決を図らなければならないことは言うまでもありません。特に野生動物に関しては、環境省野生生物課は今回急遽「鳥インフルエンザ緊急対策室」を立ち上げたそうです。この対策室が犯人逮捕後には、めでたく解散される警察の捜査本部のようであってはなりません。ここまでの、鳥インフルエンザという大火事を目の前にして、ともかく消火しなければならないという、差し迫った目的をもった「緊急対策室」の役目が終了したとしても、今後はさらに、腰をすえて本当の意味での「鳥インフルエンザ」とは何なのかという基礎的なことを、「西ナイル・ウイルスの問題」も合わせて、じっくり調べる体制を整えることが必要ではないでしょうか。「鳥インフルエンザ」が終息を迎えようとしている、これからこそが、環境省には正念場だとも言えるのです。

私たちが、これまで保ってきた、野鳥との友好関係を、このようなことで失ってしまうことがないようにしたいものです。